【京都辛口考】祇園祭りのお囃子が聞こえる・・・

鴨川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。今年の夏は、コロナ禍によって、祇園祭、例年のように叶わず。

我、市バスに乗りて、四条河原町~四条烏丸の辺りを車窓から眺むれば、耳に聞こえしは、「コンコンチキチン、コンチキチン~」の、あのお囃子の音なり。

アーケードのスピーカーから流れたる音なり。

また、四条通のアーケードには、例年の如く、祇園祭の提灯が飾られたる。

毎年、見慣れた風景なれど、一抹の寂しさを感ず。

早や7月になりて、従来ならば、街は一気に賑わいの度合いを増し、「祇園祭」モードになりたる。

されど、今年は、街中が静かに静かに過ぎて行く感あり。

祇園祭も、その他の祭りも、中止、縮小が相次ぐ。そは、京都のみならず、日本、世界中、みな同じ様なり。

誠に、「世は、常に移り行く」ものならむを思ふは、侘しき。

形有るもの、形有るがゆえに、変わる。

ダーウィンの言ふ「変化に適応するもののみ、生きる」は、わかれど、

「変わらぬものを追い求める」のも、これまた人の常なり。

斯くの如きコロナ禍の現状にありて、人の心を癒すは、非日常の世界を持つことなり。

当面は、家に居て、ネットによりて、バーチャルと言ふ世界を体験せざるを得ないのも、致し方無きこと。

されど、人と言ふ生き物は、リアルの中での、心の新陳代謝を図らねば、心が持たぬ生き物なり。

祭りは、非日常の世界を体験するには、最適の場なり。

見知らぬ者同士が、祭りによって、出会い、神事を共にし、共感することが、肝要なり。

願わくば、一日も早くコロナ禍が終息せむことを、と、強く強く思ひたり。